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​⑥評論パートの島

​宮沢賢治『風の又三郎』

 2020年5月16日の評論では、宮沢賢治『風の又三郎』を評論しました。ある村に現れた転校生と子どもたちが送る日々。冒頭、そして最後の詩が有名なこの作品ですが、同時に謎が多い作品でもあります。今回は、この作品を二つの論点から評論しました。

 

 1. 風の又三郎とは

この作品最大の謎、一体「風の又三郎」という存在は何なのか、前稿である『風野又三郎』とも絡めて話し合いました。転校生である高田三郎はそう呼ばれますが、彼がそうであるかというのは語られることはありません。三郎が現れた日と去った日が農家と関係していること、彼の服装について、地の文の記述などさまざまな面から「風の又三郎」との類似点や違いを見つけました。答えのない問いではありますが、人それぞれの解釈を知ることができる興味深い問いでもありました。

 

 2. 詩があらわすもの

わたしがこの物語を知ったきっかけは幼少時のことでした。教育テレビ制作の「にほんごであそぼ」で、冒頭と最後に出てくる「どっどど どどうど……」の詩にメロディーが付けられ紹介されていたのです。口ずさみやすいリズミカルな文は、詩単体でも十分魅力的なものです。

しかしこの詩についても誰が歌っていたか、ということは直接的に明かされません。「風の又三郎」が歌っていたとしますが、子どもたちは一体どこでこの詩を聞いたのでしょうか。

詩自体にも謎は残ります。詩で「吹きとばせ」とするものは『風野又三郎』から変化しており、変化したあとの「青いくるみ」「すっぱいかりん」には未熟なものという共通点が指摘されました。

 

 ここに書いた問い、そのほかの多くの疑問には答えがありませんでした。しかしその余白が大きい分、多くのことを想像する余地が残されています。少しずつ手掛かりを探して考えて姿が見えた気がして、それでもたどり着けない正体。風のように掴みどころのない距離とその謎こそが、この物語の面白さかもしれないと気づけた評論でした。

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